智の木協会・「木」への思い入れリレー随筆

智の木協会メンバーによる「木」への思い入れリレー随筆です

智の木協会 「木」への思い入れリレー随筆 第七回:智の木協会 事務局長  大河内 基夫 「ホップはビールのために」

 植物は、様々な形で人類に利用されている。一つの栽培植物でも、多くの場合、複数の用途がある。例えば、木綿の繊維を得るための綿でも、その実から食料油を絞っている。しかし、ビールの苦味付けに使われるホップは、ただビールのためだけに栽培されていると言っても過言ではない。
 ホップは、20ヵ国以上で栽培され、その作付面積は約60,400haで、118,400t収穫される(2018年)。主な生産国は、アメリカ(49,200t)、ドイツ(41,800t)、中国(7,000t)、チェコ(5,100t)、ポーランド(3,200t)、スロベニア(3,000t)である。ホップの栽培にはワイン用ブドウ栽培と小麦栽培と中間の平均気温が必要で、栽培地は南半球を含めて緯度35-55度の地域に集中している。例えば、ドイツのホップ産地であるドイツ南部では、ホップ栽培とブドウ栽培が拮抗し、ブドウ畑の隣がホップ畑となる場合もあった。このため、ホップのべと病などの防除に、ブドウ栽培のボルドー液(アルカリ性硫酸銅液)が転用された。日本のホップ生産は、主に長野県以北の岩手県山形県などで行われている。生産量は、1989年の約1,900tをピークに減少続け、2010年代は約300tとなり、2018年には200t余りとなった。
 世界中で栽培されているホップの原産地については、地中海の沿岸、西アジアから中央ヨーロッパなど諸説がある。ノアの箱舟が漂着したといわれるアララト山には、野生ホップが自生していて、原産地ではないかと言われた時代もあった。近年、英国のニーブは、「ホップの起源は中国である」と述べている。ホップの近縁種であるカナムグラが極東の日本、中国、台湾あたりでしか自生していないことも、ホップ中国起源説を支持している。ホップは、東アジアで飲料や食品の防腐剤として用いられ、東ロシアを経由してヨーロッパに伝えられた。ヨーロッパに伝わったホップは、直ぐにビールに使われた訳でははい。
 ヨーロッパでのホップの痕跡(種子など)は、新石器時代、前ローマ時代、ローマ時代の北海沿岸の遺跡から発見される。遺跡当りのホップ痕跡が少ないので、ビール醸造に使われていた可能性は低い。ホップの遺跡数と遺跡当りの痕跡数が増えるのは中世前期からであり、中世盛期からホップの遺跡数は更に増え、痕跡数も多くなる。遺跡・痕跡調査から、ホップは遅くとも9世紀にはビール醸造に使用されていたと推定される。
 ホップがビール醸造に使用されたと推定される9世紀以前から、様々の植物がビールのハーブとして使用されていた。遺跡調査での痕跡数から、ヤチヤナギが最もよく使用された植物であったことが判明している。ヤチヤナギは、ヤマモモ科ヤマモモ属の植物で学名はMyrica galeである。落葉小低木で、温帯地域の湿地に多く自生し、雌雄で株が異なる。現在でも、スコットランドや北欧、ドイツ北部の湿地帯に自生しており、手に入りやすいハーブである。すがすがしい独特の香りをもつ植物で、ハーブとして使用するときは、葉や枝、果実など植物全体を砕く。
 ヤチヤナギは前ローマ時代のライン川北部河口付近の遺跡から発見され、その後のローマ時代、中世前期の多くの遺跡で多量の痕跡(小枝、葉、種子など)が発見されている。これらの遺跡のほとんどは、現在のヤチヤナギの自生地と一致している。その後、中世盛期からヤチヤナギを含んだ遺跡は少なくなる。このことから、ヤチヤナギは前ローマ時代から中世前期までビール醸造に盛んに用いられ、ホップがビールに使われだした中世盛期から衰えたと考えられる。
 14世紀になると、北西ヨーロッパ全域で、ヤチヤナギビールが衰退した。その後、ヤチヤナギには毒性があるとの風説が流れ、北部ドイツでは、ヤチヤナギビールに罰金が科せられ、遂には禁止となった。こうした流れの中で、南部ドイツのバイエルンで1516年にビール純粋令が発布された。ビールに使用するハーブをホップだけに限定したのは、市民・領民の健康に配慮したためとも考えられる。なお、ヤチヤナギには毒性はなく、現在でもデンマークなどで一部の醸造所で、ビールに用いられている。
  現在、ビールに使われているホップは、イラクサ目アサ科のフムルス属ルプルス種(Humulus lupulus)に属する。一時期、ホップはクワ科に分類されていたが、現在はアサ科に分類されている。フムルス属には、①ビール用ホップのH.lupulus種、②和名でカナムグラ(鉄葎)と呼ばれ、中国、台湾、韓国、日本にだけ自生しているH.japonicus種、③中国のホップ近縁種であるH.yunnanensis種の3種がある。また、ビール用ホップが属するH.lupulus種には、①ビール醸造用に栽培されているH.lupulus var.lupulus種、②日本の野生ホップでカラハナ草と呼ばれるH.lupulus var.cordifolius種、③北アメリカの野生ホップであるH.lupulus var.neomexicanus種三つの亜種がある。
 ホップの核DNAと葉緑体DNAの塩基配列を解析して進化の道筋を探ると、フムルス属の中でのルプルス種(ホップ)とジャパニクス種(カナムグラ)の分化が約640万年前と推定された。また、世界各地の野生ホップを集めて解析すると、ヨーロッパ、北米、中国、日本の野生種集団は、遺伝的にも分化していることが判明した。ホップとカナムグラが分化した後、105-127万年前にルプルス種の中でヨーロッパ集団が分化し、その後、60-80万年前に北米、中国、日本の集団が分化したと推定された。日本はホップの故郷なのかもしれない。
 ホップは、初冬に地上部が枯れる宿根性の多年生植物で、蔓性である。ホップには雌株と雄株があり、一般的には雌株を栽培し、未受精の毬花(花びらのように見えるのは、葉が変形した苞である)をビール醸造に用い


る。受精した毬花は品質が下がるといわれており、ドイツでは雄株が発見されると伐採される。ホップは、地下の株で越冬し気温が上昇すると萌芽して蔓を伸ばす。ホップ畑には、棚が用意してあり、ホップの蔓は棚へ登る。腋芽からも蔓が伸びる。6月下旬から7月上旬に蔓が最上部に到達すると、毬花が咲く。毬花の開花期間は15-30日間で、ホップは8―9月に収穫される。

 

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 ホップ中の有用成分は、苦味質、精油成分とポリフェノール類である。ホップの苦味は、フムロン類と呼ばれる分子量360前後の複雑な化合物に由来する。フムロン類は水に溶けないので苦味が無いが、ビール醸造の過程で麦汁を殺菌する時、加熱により水に溶けるイソフムロン類に変化して、ビールに苦味をつける。苦味は人類が毒を持つ植物を食べないように備わった味覚であり、苦味を持つ植物は多かれ少なかれ、薬用植物であっても必ず毒性持っている。しかし、ホップのフムロンには、全く毒性がない。
 ホップの精油成分の大部分は、イソプレン(炭素数5)を単位とするテルペノイド系物質である。テルペノイド系物質は、炭素と水素だけで構成されていて、麦汁やビールに溶解し難いので、ホップ精油は麦汁煮沸で蒸散して大きく減少する。このため、多くのホップ精油は、ビール中には検出できない。しかし、弁別閾値がμg/Lなので、ビールまで残った精油成分はビールの香味に大きく影響する。
 最近、ニュージーランドアメリカのホップから、特徴的な香りを持つ揮発性チオール類が発見された。揮発性チオール類とは、アルコールの-OH基が-SHに置き換わった化合物で、1990年代後半に、ソーヴィニオン・ブランワインから発見された。ワイン中の弁別閾値は、ng/Lと小さく、テルペノイド系物質の1000分の1である。ワインでは、シダを連想させる香りやグレープフルーツ様の香りの原因物質となっている。ニュージーランドNelson Sauvinと言うホップにも、グレープフルーツ様の香をもつ揮発性チオールが見つかり、Nelson Sauvin醸造したビールや発泡酒にも確認された。ビール中での弁別閾値は、70ng/Lと推定されている。その後、アメリカホップにも他の揮発性チオール類が発見された。
 これまで、ドイツを中心とするヨーロッパホップでは、揮発性チオールが検出されなかった。チオールの-SH基がCuイオンと反応するので、防除にボルドー液を使用したドイツ産ホップには、揮発性チオールが含まれていない。同様に、銅釜を使った麦汁製造では、ビール中に移行しないことが予想される。ビール中での揮発性チオール類の発見が21世紀となったのは、揮発性チオール類の含有量がng/Lと微量であることと銅イオンの影響とが考えられる。
 ホップは、新石器時代以前からヨーロッパで何らかの目的に使用されていた。中世初期からビールに使われ、その後、ホップはビールのためだけに品種改良され栽培されてきた。ホップは、毒性の無い苦味と精油成分と揮発性チオール類の香りを兼ね備えた植物だった。ホップがどのようにして極東からヨーロッパに伝わったのか、何故極東の人々はホップを忘れてしまったのか、この未解明の問題を考えるために、もう一杯苦いビールを飲もう。

智の木協会・「木」への思い入れリレー随筆 第六回:京都薬科大学 名誉教授 吉川雅之  「”チャ”大地のささやきを聴く」











 チャは、ツバキ科ツバキ属の常緑多年生木本で、学名(ラテン語名)をCamellia sinensisと言います。葉が小さく樹高が2〜3mほどの灌木で耐寒性の強い中国種と、葉が大きく8〜15mにもなる喬木のアッサム種が存在します。原産地としては、長江、メコン川上流域の中国の四川、雲南省からビルマ北部の山岳地帯と、中国東部から南東部にかけての二つの地域があるとする二元説と、長江、メコン川上流の地域のみとする一元説がありますが明確ではありません。中国種は、雲南、四川、貴州省などの中国西南部から福建、浙江省などの中部地域および台湾、日本の暖地などで栽培されており、インドやアフリカ(ケニアなど)、南アメリカ(アルゼンチンなど)へも移植されています。一方、アッサム種は、インドやスリランカインドネシアなどの熱帯、亜熱帯地域で栽培されていますが、徐々に味の良い中国種に代っているそうです。

 チャの葉(茶葉)が初めて本草書に収載されたのは、唐時代に著された「新修本草」(659年)とされていました。しかし、それより160年程前に陶弘景が著した医学書「神農本草経集注」に、上薬として収載されている“苦菜”が茶葉であると記載されておりました。陶弘景の説は、賛否両論がありましたが、今日では肯定する意見が多数を占めています。さらに詳細な検証から、紀元前1世紀頃にはすでに茶葉が利用されていたと考えられております。当初、茶葉は薬用にされており、頭痛や目のくらみ、多眠、激しい口渇を治し、去痰、消化、利尿効果があり、解毒効果があって、下痢や二日酔いを治療するなどの薬効が知られていました。761年頃には、陸羽によって茶の専門書「茶経」が出版され、解熱作用や気鬱に効果のある事や、茶の種類、産地、品質、茶器、煮方、飲み方などの飲茶全般について記載されています。

 日本には、近年の考古学的な調査などから奈良時代末期には渡来し、飲用されていたと考えられています。また、「新修本草」などの書物も渡来しているので、茶葉の薬効などの知識もすでにあったと思われます。一般的には、平安時代(805年)に唐から帰国した伝教大師最澄がチャの種子か苗木を持ち帰り、比叡山山麓の坂本に植えたことに始まると考えられています。「日本後記」には、815年4月に嵯峨天皇の近江行幸の折、大僧都永忠が梵釈寺において茶葉を煎じて献上したと記されており、これが日本最初の喫茶の記録になります。嵯峨天皇は、815年6月に畿内の諸国にチャの栽培を命じられました。また、平安宮に茶園を設けられ、内蔵寮薬殿で製茶が行われたそうです。当時の喫茶は、団茶(茶葉を蒸してから臼で搗いて固めて乾燥したもの)を研って粉末にして湯に投じて煮だしたものを飲んでおりました。団茶は、今日の雲南省プーアル茶高知県碁石茶の原型と言われていますが、著者にはあまり美味しいものとは思われません。それでも唐風文化にあこがれる平安貴族の間に団茶を用いた喫茶が流行したことは、「凌雲集」などの漢詩集に菅原道真などの宮廷人の茶を讃える詩が残っていることから伺い知ることができます。しかし、遣唐使の廃止などから唐風文化が廃るに従い、喫茶の風習は寺院などでの儀式や行事に用いられるに過ぎず、日常的に飲用されるまでには至りませんでした。

 喫茶の再興は、鎌倉時代の初期(1191年)に南宋から帰国した千光国師栄西によってもたらされました。栄西禅師は、当時の中国で広まっていた抹茶を用いた新しい茶法(抹茶喫茶法)とともに、種子や苗木を持ち帰ったと考えられています。それらは九州の備前筑前に植えられるとともに、さらに山城栂尾にある高山寺明恵上人に贈られ、栂尾の茶は“本茶”と呼ばれ最高品質との評価を得ていました。栄西禅師の著した「喫茶養生記」にもあるように、当初は薬としての用法が中心でしたが、栽培が普及するとともに嗜好品として飲まれるようになっています。貴族社会の遊びとして闘茶(茶の味を飲み分けて勝敗を競う遊び)なども行われましたが、聖一国師円爾や大応国師南浦紹明によって中国の茶会の作法や茶道具などが紹介され精練されていきました。室町時代には次第に華やかさより精神的交流を重視した日本独自の“茶の湯”へと発展し、武士などの支配階級に広がりました。江戸時代初期(1654年)に黄檗宗の華光大師隠元が明国から来日し、煎茶喫茶法がもたらされました。幕府の「慶安御触書」などで喫茶が贅沢とされたにもかかわらず、庶民の間にも煎茶が広く飲まれるようになりました。明治時代になると茶の湯は“茶道”と改称され、一般人の礼儀作法の嗜みとなるまでに発展しました。

 今日では、加工調製法の異なるいろいろな種類の茶がありますが、不発酵茶と半発酵茶、発酵茶の3種に大別できます。不発酵茶は緑茶のことで、発酵を止める方法が異なる日本式の蒸茶と中国式の釜入り茶に分けられます。蒸茶には、栽培時の遮光や加工時の揉捻の有無、摘採部位の違いなどによって玉露、抹茶(碾茶)、煎茶、番茶などがあります。半発酵茶は、烏龍茶に代表されるもので、摘採後に放置して乾燥過程で茶葉自体に含まれる酵素で発酵させるなどしたものです。類似のものとして弱発酵茶(白茶)や弱後発酵茶(黄茶)が中国にあります。発酵茶は完全発酵茶や全発酵茶とも呼ばれ、紅茶がその代表と言えます。このほか、後発酵茶(黒茶)と呼ばれる、緑茶をコウジカビなど微生物で発酵させるものがあり、プーアル茶が有名です。

 2010年における世界の茶葉生産量は、約452万トンで、1位が中国の150万トン、2位がインドで100万トン、3位がケニアの40万トンになっています。そのうちの約80%が紅茶にされ、残りの約20%が緑茶で、烏龍茶などの茶は微量にすぎません。日本では、8.5万トンが静岡、鹿児島、三重、宮崎、京都などで煎茶や番茶として生産されています。

 茶葉には、カフェイン、カテキン類およびテアニンなどのアミノ酸類が主要成分として存在し、香り成分のテルペノイド類やフェノール類、フラボノール類およびサポニンも含有されています。カフェインには、中枢興奮による覚醒作用と強心作用、呼吸量と熱発生の増加による脂肪燃焼効果、脳細動脈収縮作用、利尿作用などが、カテキン類に、抗酸化作用、抗菌、抗ウイルス、抗う蝕作用、抗がん作用、抗糖尿病作用、抗肥満作用、血圧上昇抑制作用などが、テアニンには、リラックス効果、抗ストレス効果、睡眠改善作用などが報告されています。
 筆者らは、生体機能性物質の開拓を志向して、チャの各部位について化学と薬理の両面から研究を進めており、日本産中国種茶葉からサポニン(foliatheasaponin類)、スリランカ産アッサム種茶葉からサポニン(assamsaponin類)を単離、構造決定するとともに、茶葉の伝承薬効の解毒作用に関連してサポニン成分にマスト細胞からの脱顆粒抑制活性を見出しています。また、チャの花 (茶花) は、中国やインドなどの茶の主産地でも食経験は無いが、日本では何故か古くから食用にされており、例えば島根県の“ぼてぼて茶”という茶花の入ったお茶漬けのような料理は今日も出雲名物となっています。しかし、茶花の薬効は伝承されておらず、また含有成分や生体機能についても全く研究されていません。“ぼてぼて茶”がタタラ(製鋼)職人などの重労働者の空腹時の凌ぎ飯や飢饉の際の食延と呼ばれる食料消費の節約をはかる救荒食であったことに着目して、食欲抑制や吸収阻害効果を中心に検討しました。その結果、主成分であるサポニン [chakasaponin 類 、floratheasaponin 類など] に摂食抑制、脂質および糖吸収遅延、胃排出能抑制、小腸運動亢進および抗肥満作用などが認められました。サポニン成分の定量分析や安全性試験および臨床結果などからメタボリックシンドローム予防に有用な機能性食品“茶花”が開発されました。

 人参などのサポニン成分は水溶性で高分子量の配糖体であり、そのままの型では吸収されず、腸内細菌によって加水分解や構造変化を受けて血中に移行して作用発現することが明らかになっていました。茶花のサポニンは、経口投与で迅速に活性発現し、また、アシル基の除去や結合位置の転位によって活性が消失することから、腸内細菌の関与は考えられません。作用機作を検討したところ、例えば摂食抑制作用は、消化管内で食欲亢進シグナル neuropeptide Y (NPY) の分泌減少と食欲抑制に関与する serotonine (5-HT) などの神経メディエイターや消化管ホルモンの cholecystokinin (CCK)、glucagon-like peptide 1 (GLP-1) などの遊離促進を発現して迷走神経求心路を介して作用を発現することが明らかとなりました。茶花サポニンの結果は,水溶性成分が代謝吸収されることなく消化管での神経刺激によって作用発現することを示唆しており、湯液や水抽出エキスが用いられる生薬や漢方方剤の薬効解析に有用な知見になると考えています。

 以上のチャの持つ智的な背景と私のチャ研究の経緯から智の木協会に入会するにあたり、チャを選択しております。

(平成29年2月28日)

智の木協会・「木」への思い入れリレー随筆 第五回:智の木協会 理事 大塩 裕陸 「椎の実の味を知っていますか」

 私は東京の板橋区で幼少期から25歳まで育ちました。今では地下鉄有楽町線を利用すれば池袋まで10分足らずの便利な土地ですが、当時は東上線西武池袋線に挟まれた田園地帯でした。「武蔵野の影 消え失せて 人家続きの 上板橋 ・・・・・」これは母校の校歌の一節です。(因みに作詞は、「ふるさと」「春が来た」「春の小川」「もみじ」などの作詞で有名な高野辰之先生です)
歌詞には人家続きとありますが、まだまだ水田や畑が多く、晴れた日には彼方に富士山を望むことが出来、武蔵野の面影を残した土地でありました。今となっては叶いませんが、高野先生は実際に母校を訪問されてこの詩をお書きになったのか尋ねてみたい気がいたします。農家の人たちが初夏には田植えや野菜つくり、冬には麦踏をする姿を日常的にみられたものです。

 武蔵野といえば雑木林やケヤキを想起する方が多いでしょう。でも私の記憶に強く残っているのは椎の木です。テレビやゲーム機のない時代ですから子供たちの遊びは専ら魚とりや虫とり、鬼ごっこやかくれんぼなどの野外での遊びでした。実家の周りには椎の木が4〜5本植わっていて一人で遊び相手のいないときにはよく木のぼりをして遊んだものです。
 椎の木は枝が混んでいて登りにくいのですが、適当に枝を切ってそこにリンゴ箱から採った板を渡して今でいうツリーハウス風のものを作って遊びました。椎や樫、枇杷の木などは足をかけても丈夫で折れることが少ないので安心です。一方柿の木は折れやすいから登ってはいけないと教えられていました。これは昔の人の知恵で柿泥棒を戒めるための話かも知れません。
                            写真説明: 椎の実・・・熟して落ちるのはあと1カ月
 戦後の貧しい時代には甘いお菓子をおやつに頂くような習慣はありませんでしたので、子供たちは自力で野外の植物を採集して食べたものです。食べられるものとそうでないものとの区別は多くは農家の友達から教えられました。ノイチゴやグミ、カキやクリ、ビワ、イチジクなどを食べた記憶がありますが私の一番のお気に入りは椎の実でした。椎の実はどんぐり(樫の実)やおかめどんぐり(クヌギの実)と違ってそのままでも、鍋で炒っても食べられてほのかな甘みがとても美味しいものでした。近所の神社の境内や林のどこに椎の木が植わっていて、いつ頃行けば椎の実を収穫できるか当時は良く記憶していました。
                            写真説明: 東大赤門の両側に配置された椎の木

 先年母校を訪れた時は丁度椎の実が熟れて地上に落ちる季節でしたが、一面に落ちている椎の実を拾う人は全く見られず、わずかに銀杏(イチョウの実)を拾う人の姿を見たのみで寂しい思いをしました。
 椎の木はブナ科シイ属に分類され、スダジイとツブラジイがあると知ったのはかなり最近のことです。常緑の広葉樹で日本の照葉樹林帯における代表的な樹種であり、関東以西では山野に群生しているのを普通にみられる一方で平地では庭園樹としても広く観察することができます。文京区では東京大学,椿山荘、その他区内の公園内でも樹齢100年を超す立派な大樹を見ることができます。私の住んでいる北摂地域では、今は丁度クリの収穫最盛期でクリ拾いの季節です。椎の実が落ちてくるのはまだ1カ月くらいかかりそうです。今年は久しぶりに椎の実の味覚を味わってみたいと考えます。

ところで万葉集の142番歌に有間皇子の歌として
   家にあれば笥(け)に盛る飯を草枕
        旅にしあれば椎の葉に盛る
という歌があります。私の会社の先輩でこよなく歌を愛する人と道を歩いているときに、傍らのマテバシイの街路樹をみて、ふっと口にした言葉が今でも気になります。「万葉集にでてくる椎の葉というのはマテバシイではないだろうか、椎の木では葉が小さすぎるとおもう。」皆さんはどうおもいますか。私はマテバシイでもご飯をその上に盛るには小さい気がします。ホウの木やトチの木、カシワの木なら十分な大きさがあります。あるいは神事として形だけ椎の葉に飯を盛る習慣があったのではないでしょうか。いろいろ想像するのは楽しいものです。
写真説明: シイとマテバシイの葉の比較
 また最近カシノナガキクイムシ(略称カシナガ)という害虫がナラやクヌギ、シイ、カシを食い荒らし枯死させる現象が広がりつつあり、林業関係者の間で大きな問題となっています。私も京都御所の立派な椎の木が被害に遭い完全に枯死しているのを目の当たりにし、何とか対策がとれないものかと憂慮しているものの一人です。

 日本列島を上空からみれば緑に包まれた美しい島国であることを再認識させられます。地球環境をささえている森林、樹木の大切さを肌で感じるためにも是非一度椎の実を味わってみてはいかがでしょうか。(平成23年9月30日)

第四回:智の木協会 理事 吉田 茂男 「ユーカリの薫りに包まれた世界」

1979年4月7日(土)は私と家族にとってオーストラリア体験の初日であったため、いまも鮮烈なビジュアル画像として私たちの記憶に残っている。成田空港からのカンタス航空シドニー行き夜行便は、約8時間後に明け染めた空の下に広がるシドニー国際空港に着陸した。すると間もなく2名の検疫官が無表情で乗り込んできて、キャビンの前方から後方までスプレーで乗客の頭上に向かって消毒液を散布し始めた。この時代のオーストラリアやニュージーランドでは、外来病原菌や害虫に対する防御のためであれば、旅客の不快感など問題外であったようだ。その後、私たちは飛行機を降りて空港ターミナルに進み、厳しい入国審査を受ける緊張の瞬間を迎えた。その時、消毒液の臭気がようやく薄れたこともあり、建物外部の方向から漂ってくる植物質の爽快な薫りを感じた。これがユーカリから発せられる薫りであり、オーストラリアで目立つ大きな樹木の大部分がユーカリであることを気付かせる体験であった。当時は日豪経済協力が急速に進んでいたが、一般の日本人にとっては遠い未知の国であり、一般的な情報はほとんど手に入らない時代であった。

 私が勤務したオーストラリア国立大学(ANU)は首都キャンベラにある。英国植民地時代のオーストラリアではシドニーメルボルンが大都市に発展していたため、独立国家の首府を両市の中間に設置することとし、アボリジニーの言葉で「出会いの場所」を意味するキャンベラと命名された。その後、国際コンテストで斬新な都市計画を採択し、半世紀以上の時間をかけて建設を進め、1960年代後半にようやく初期計画の完成が宣言されたのである。合理的に計画されたこの街では歩行者と自動車の動線が完全に分離していて、幼子をかかえる私たちには本当に安心できる居住環境であった。私たちの住居は「5 Hopegood, Garran, Canberra」の職員用集合住宅であったが、庭先と外の緑地が一体となって広がっていて、ところどころに大きなユーカリの木が配置されていた。この場所の現在の様子はグーグルマップによって手に取るように見る事が出来る。キャンベラは東京23区の広さに30万人程度の人が住んでいて、中心部には人工湖(バーリーグリフィン湖)やブラックマウンテン、マウントアインズリーなどが配置され、その周辺には自然林緑地が広がっている。その一角を占めるANUのキャンパスは、大きなユーカリの木々の間をさわやかな風が吹き抜け、カラフルなインコや小鳥が飛び交う美しい光景が当たり前のように存在する場所である。

 私がANUのクロウ教授から依頼された研究の対象は、グランディスというユーカリが大量に生産しているG−インヒビターという発根阻害物質であった。グランディスはローズガムという俗名で一般の人にも有用な大木として知られている。ユーカリは、実際には700種以上に分類されるフトモモ科ユーカリ属植物の総称であり、形態や成分は実に多種多様である。温暖地を好むグランディスは30メートル以上の直線的な巨木となるだけでなく、木質が適度に軟かくて加工しやすいので産業的に重要視されている。ところがユーカリは広範囲の異種間で容易に交雑してしまうため、種子から良質のユーカリ品種を育成するのは非常に難しい。そのため、当時のANUでは優れた性質のグランディスを挿し木や接ぎ木でクローン苗にする技術の可能性を検討していたのである。

 オーストラリアは乾燥・高温にさらされる厳しい気候が支配的な大陸であるため、独特な環境適応能力を獲得した固有の生態系が成立している。オーストラリアの森林に入る場合には「トータル・ファイア・バン」という情報に注意を払う必要がある。これは、暑い日に屋外での火気使用を厳禁する一種の戒厳令で、気温が高く乾燥した日には山火事が極端に発生しやすいことを示しているのだ。オーストラリアにはブルーマウンテン、ブラウンマウンテン、レッドヒルなどという地名が数多く見受けられるが、暑い日に山林のユーカリが大量の精油成分を放出して太陽光線の一部を吸収するので、山林の遠景が色づいて見えるためと言われている。そのときの山林全体はガソリンを撒いたような状況となり、小さな火種から爆発的に燃え上がって大規模な山火事となる。面白い事にオーストラリア原生のフトモモ科(ユーカリ、カリステモンなど)、ヤマモガシ科(バンクシア、マカダミアナッツなど)、マメ科(アカシア、ミモザなど)の樹木は、いずれも山火事を利用して勢力拡大を図るという生存戦略を採用している。例えばユーカリの樹皮の下には普段は発芽しない無数の休眠芽があり、火災の際には精油成分の効果で表面だけが焦げる。すると休眠を誘発していた樹皮内の物質が消失し、次の降雨によって動物の体毛のように密集した芽を一斉に吹く(写真1参照)。また、バンクシアやアカシアなどの種子は、炎にあぶられて加熱されると発芽の準備が整う。これらの驚くべき環境適応により、オーストラリアの自然林は黒焦げになっても数年で元の姿に戻るのである。


写真説明:オーストラリアの山火事で黒焦げになったユーカリから一斉に発芽が始まる。

 ANU化学科のクロウ教授と植物学科のペイトン博士は、ユーカリを全く知らなかった私に辛抱強く正確な知識を与えてくれた。この頃、ペイトン博士はユーカリ専門家として、コアラの餌になるユーカリが日本で栽培可能であるかを豪政府の依頼で調査していた。その結果を受けて、5年半後の1984年10月に東京・名古屋・鹿児島の3都市でコアラを公開飼育する事が許可されたのである。また、一般のオーストラリア人がユーカリの薫りや精油成分をいろいろな形で日常生活に取り入れている事も教えられた。例えば、ユーカリ蜂蜜、キャンディー、湿布薬、化粧水、入浴剤など多種多様である。このような生活環境は、それまで植物に対して無関心であった私の感性を根底から変えることになったのである。

 ところで、この国の人々が愛唱する「ワルチング・マチルダWaltzing Matilda」という歌曲は、英語の堪能な人が歌詞を読んでも全く理解できないはずである。私もこの歌の題名が「ズタ袋担いで行こう」という意味であると聞いて、オーストラリアの俗語(オージースラング)と英米語とのギャップに驚いたものである。冒頭のフレーズ、”Once a jolly swagman camped by a billabond, under the shade of a coollibah tree…..” は、「昔、陽気なswagman(放浪者)がbillabond(池)のほとりのcoollibah(ユーカリ)の木陰でキャンプした・・・」という意味なのだ。この歌全体がオージースラングで表現されていて、「警官に追いつめられて池に飛び込んだ羊泥棒の幽霊を偲ぶ」というペーソスに溢れたストーリーを独特な情感の曲に仕立てている。これがユーカリの薫りが育んだオーストラリア人の感性を表現するものであり、そのために50年前の名画「渚にて」のサウンドトラック曲にオーストラリアを象徴する曲として採用されたのであろう。

 ユーカリ温暖湿潤な日本で栽培するとオーストラリアの数倍のスピードで成長する。このため、焦土と化した戦後の都市を復興し緑化するためにユーカリの植樹が推奨された時代があった。ところが、日本ではユーカリが容易に水分や養分を吸収できるため、根を十分に張らないうちに巨木に成長する。このことが台風シーズンに倒木被害を多発することになり、ユーカリが日本の都市緑化の舞台から降りることにつながった。また、ユーカリの薫りとなる精油成分などの生産量が極端に低下することも判明した。つまり、ユーカリは激しい気候のオーストラリアの大地に育つことによって本来の生き方ができるのであり、日本の優しい環境では単なるウドの大木に成り下がってしまうのである。なんだか身につまされるユーカリの生態である。

第三回:智の木協会 副理事長 黒田 錦吾 「ガーデンオフィスへの思い」

私達は今日、豊かさと便利さを手に入れましたが、それと引換えに多くの自然や動物、人間性までも無くしそうになっています。そのことに漸く気付き、各国の行政、民間レベルで環境保護ための啓蒙活動、保護活動、国際間の合意が地球規模で進められていますが、それぞれの思惑やエゴにより総論賛成各論反対で本質の解決に向かって順調に進んでいないのが現状です。

我々の日常生活でも、満員電車の通勤、無味乾燥なオフィスで長時間勤務、ほとんど自然を感じる余裕すら無い毎日・・・ふと鏡に映った正気の無い無表情な自分の顔に驚かれた経験はありませんか?

本来、私達の祖先は太陽が昇ると活動をはじめ、沈むと休むという自然との共生生活を長らくしてきましたが、今日のような高度情報化社会で生活をするようになり、自然を皮膚感覚で感じる心の余裕が無くなり、感激や感動する五感も衰えてきています。
特に都会では真っ青な空、真っ白い雲、満天の星空を眺める機会も少なく、空の青さに清清しさを貰ったり、新緑の木の勢いに元気付けられたり、せせらぎの音や傍らにさりげなく首を傾ける野草に愛しさを感じる機会はめっきり少なくなりました。子供のころに夢中で遊んだとき目にした、蝶、トンボ、フナ、メダカ、ドジョウなどの小動物や、緑などの自然はどこに消えてしまったのでしょう。

日本は、江戸時代には既に樹花の種類が豊富で、造園技術の高さは諸外国の使節や宣教師に驚きを与え、高い関心と評価を得ていましたが、反面、その価値を過小評価したためか、多くの樹花が海外へ持ち去られ、その原種が日本に存在しないという話を聞きますと残念に思うのと寂しさも感じます。

山紫水明の国「日本」には四季があり、土壌や水に恵まれ、梅、桜、つつじ、五月、菖蒲、紫陽花、菊、楓と樹花は豊富です。また、花見や俳句の会などを開くことで季節を詠み、衣装までも季節の色に合わせる文化レベルの高い国でした。
その後、文化レベルは後退したものの、梅、桜、紅葉の季節には花見や紅葉狩が身近なものとなり、特に桜は開花情報が報じられるほど国民に人気の高い花となりました。寒かった冬から抜け出し人々の活動が活発になると、否、桜が咲くから人がソワソワするのか、一斉に花が咲き、満開になる勢い、上品な薄ピンクの華やかさ、アッという間にはらはらと散る儚さが日本人の美意識と心情に合い、数多くの歌が残されているのも桜の花が一番です。
個人的にも四月生まれのためか何か桜の花に惹かれます。

さて、長らくオフィスワーカーとしての経験より、オフィスに対する思いを述べておきます。
人生のゴールデンタイムを会社で過ごすオフィスワーカーは知的創造性の高さと効率のよい働き方への変革を求められています。その為には働く場所が快適で創造力を発揮できる整備された空間でこそ初めて仕事の変革ができると考えています。
疲れた目を休めてくれる緑、開放された時にリラックスできる緑、スペースにほどよく配置された緑、あたかも自然の中で働いているようなガーデンオフィスの提供です。室内の光や水遣りが少なくても育ち、冬の低温に強く、乾燥した室内でも調湿能力を持つ樹花、バクテリアの発生しにくい土壌等、関連技術の開発も必要になってきます。

「智の木協会」は、産、学を中心として広く一般人を巻き込み、樹花に関心、知的好奇心を持つ人達が共に智恵を集め、樹花が持つ不思議な力と可能性を更に研究、開発、情報発信して、身近に樹花を感じる環境を作る、ユニークな協会です。
人間性豊かな環境を取り戻すことで樹花に対する関心が高まり裾野の広い活動に繋がっていきます。智の木協会が多くの方々の関心とご支持を受け、力強く連綿として続く活動になっていくものと多くの期待を寄せています。

智の木協会 副理事長 黒田錦吾(2009.9.18)

(1)海外のオフィス事例

(2)(3)(4)海外のオフィス事例(個人ワークスペース


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(5)(6)コクヨ株式会社 品川オフィス「ECO LIVEOFFICE(エコライブオフィス)」


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第二回:智の木協会 代表幹事 小林 昭雄 「林檎によせる想い」


信濃の春はネコヤナギがまろやかなビロード状の芽を膨らませ、庭先で福寿草が黄色の丸い芽をのぞかせる時から始まる。やがて、梅が咲き、桃が続く。そして、4月中旬、桜の季節となり、しばらくして、リンゴの花が追いかける。遠望すれば、山懐が深く黄昏(たそがれ)を演出する中央アルプスの山々が鎮座し、そこには、まだ、雪化粧が残る。4月に入ると伊那の谷を渡る南風が春の息吹を運び待ち焦がれた信濃路の春となる。
しんしんと冷える二月のかかりの寒さに耐えてこそ、花の色や木々の緑は深まる。信州と言えばリンゴを思い起こす人は多い。ご存知のようにリンゴはバラ科に属する植物である。小学校の理科の時間に「リンゴはバラと同じ科の植物」と聞いても全く納得しなかったことを思い出す。「イチゴもバラ科で果実が食べられる植物はバラ科のものが多い」と聞いた。イチゴとバラとサクラとリンゴ、子供心には結びつかなかった。
当時、それなりの秘策を考えついた。 4月中旬から下旬に咲く、伊那公園、高遠公園の桜の香りを記憶し、しばらくして咲き始めるイチゴとリンゴの花を待つことにした。
地面に伏してイチゴの花に鼻を近づけ息を鼻からいっぱい吸い込んだ。香りは嘘をつかず、白い花びら5枚からなるイチゴの花は期待どおり、清潔な甘い香りを示した。雄しべもいっぱいあった。バラ科の果実を比較してみると、花びらを支え、まとめる花卓や子房の部分は、花びらが落ちると徐々に膨らみ、それを食することになる。バラであれば、紅茶にも使われるローズヒップであり、小リンゴと言われるカイドウ(サクランボ状に果実がつく)を見ると、確かにローズヒップによく似ている。この実もパリパリして、いかにも野生リンゴの味がする。 
私的にみても、バラ科植物に結構お世話になった。
父は戦時中、浜松から信州、伊那に疎開し、65歳の定年を待って果樹園を始めた。定年後の人生の設計図を50歳代後半から着々と描き、畑に紅玉リンゴと二十世紀梨を植え始めた。そして、退職金の一部と年金をつぎ込み、まともに果樹園を始めたのである。今までと全く違う専門分野に乗り出して、未経験を見よう見真似で始めたのであるから、ベンチャー事業を始めたと言ってよいのかもしれない。ついに農業共同組合員となり、梨やリンゴを出荷し、数百万円の年収を上げ大いに自慢していた。
そのドライビングホースは何であったかと親父が果樹園を始めたのと同年代になった今、あれこれ考えてみた。
果樹には、当たり年と裏年があるが、一般的に、植物は嘘をつかない。季節・気候を読み適切な手入れをすれば必ず結果が伴う。
また、退職金と年金の投入は、私を例にとってみると、テニスクラブへの入会金と月々の会費にあたる。見返りに、親父は、結実の楽しみを手にいれ、成果物を友達に送り感謝され、一部を売って利益をあげ、当時の私への学費を生み出した。私は、友人づくりと健康増進にとテニスに精を出している。やはり、親父は、生き甲斐ばかりでなく利益をあげたのであるから偉大かと思いつつも、どちらの生き方が望ましいかは考えないことにした。
信州の厳しい冬に耐えた、梨やリンゴは五月晴れの太陽を浴びてひたすら生長する。そして、秋には立派な実をつける。
現在、室内緑化・屋内緑化を進める活動の中で、「花が咲き実のなる植物には、明日につながる夢がある」ことを強く実感し始めている。そして、2008年末、果樹の開花、生長と結実に一喜一憂していた両親の生き様をあれこれ考えていたおり、マルチンルターの名言に出くわした。
"Wenn morgen die Welt unterginge, würde ich heute ein Apfelbäumchen pflanzen."
「もしも明日世界が終わるなら、私は今日リンゴの木を植えるだろう」
また、開高健氏は、ゲオルグの言葉に共鳴し、好んで、「明日、世界が滅びるとしても 今日、あなたはリンゴの木を植える」を書に用いた。この言葉をめぐっては諸々の意見が飛び交っているが、私には、明日に着実に夢をつなぐ存在として植物を位置づけることは、具体的に成果をとらえやすく、その例として果実のなるリンゴを引き合いに出したのであろうと思える。リンゴの花は花弁にはにかむような紅をさし、純潔で清楚、香りは上品である。寒さに強く、秋には、しっかり実をつける。ニュートンは、その落ちるのを見て、万有引力の法則を見出し、欧米では、「An Apple a Day Keeps the Doctor Away」 「毎日、一つのりんごを食すれば医者は要らぬ」の例えにもなっている。「Apple polish」は、良い例えではないかもしれないが、白粉(天然ワックス)が表面を覆い、もぎ取った手の跡が残る実をそのまま病人に渡す不届き者はいて欲しくない。食べる寸前に磨いたピカピカに光ったりんごは視覚的にも良く美味しいはずである。
 アルプスを背景に、明日への可能性を秘めながら清素に咲くリンゴの花は、万人が愛するシンボル花であり、私がリンゴと育ったことは、幸いに「植育」を実体験したことでもあると思っている。 
 私は、日々の生活の中で植物と深く触れ合うことで、緑豊かな環境の重要性を一人でも多くの方に認識してもらいたいとの思いから智の木協会の活動に打ち込んでいる。
今のような高齢化社会との遭遇は人類にとって初めての体験であり、いかに充実した思いで第三世代を送るかは極めて重要な人類共通の課題であり、その中で植物は、最有力な癒し要素となりえるし、また、我々の最良なパートナーでもある。  

第一回:智の木協会 理事長 豊田政男 「咲き誇る「桜」か,散りゆく「紅葉」か」


 「自然」,これは響きの言い言葉で,「自然を大切に」がしばしば謳われるものの,あまりにも趣のない答えが多いのも確かである.地球がサステイナブルであるために,我々に課された宿題も多いが,それにもまして,自然の力の偉大さは,自然を破壊すると言われる人間の力の及ばないところも大きい.人間,社会,地球の三つの要素が影響を及ぼしあって環境を作り出しているが,単なる「自然を愛する」の言葉で終わることのなく,地球が活きると人類が活きるを求め続けることは,「智の木協会」のメンバーに期待されているところでもあろう.
 「智の木」は,単に植物としての「木」を意味するものでなく,人が積み重ねた「智慧」の集まりを意味し,いろいろな局面でそれを活用することがメンバーの「望み」でもある.ただ,「木」には重みがあり,人類の生存を超えるはるかなる長さを生きてきた木は,時として思慮及ばない大きさを持つともいえる.
 風景としての木々は,人々に安らぎを与える.その中にあって,一番の思い入れの木はと聞かれると,その土地にあっての風景としての木々は,それぞれに思い出深い.ハワイ・マウイ島バニヤンツリーの大樹,ヨセミテ公園のセコイアの大木,ブラジルの国花ノウゼンカズラ科のイペー,沖縄で見た泰山木の大きな花,などなど,その場その場にあっての木と花なのであろう.さすれば,日本での想いを抱かせる木とはと問われると,答えるのが難しい.ただ,我が国は四季があり,その季節を一番に感じさせる木と言えば,「桜」と「紅葉」では無かろうか.
 君が代は国歌であるが,海外では日本の国歌は,「君が代」よりは「さくらさくら」かもしれない.国歌でなくて国花の印象かもしれないが.海外の地元の民芸ショーなどでは,必ず日本の紹介に^さくらさくらが演奏されるのを見てもそうなのであろう.
 サクラは,バラ科サクラ属で,ウメ,モモ、スモモ,アンズなどを除く,主として花を観賞する植物の総称でもある.我が国には,桜の名所が点在しており,名所でなくとも日本そのものがサクラづくしとなるのが春でもある.「サクラ」の名の由来については,「コノハナサクヤビメ」のコノハナがサクラを指し,サクヤが転じて「サクラ」に(本居宣長説など),とか,古歌が転じたとか言われる.サクラといえば,今はソメイヨシノかも知れない.そのサクラの開花時期は短く,高々一週間程度であろう.「時期を得た好機」などに,そう訪れられるものではない.
 我が国では,桜前線が3月末から5月初めにかけて北上する.このような情報が大々的にテレビで放映されることも珍しいもので,それほどに関心の深さが感じられる.大阪にあっては,造幣局の通り抜けの八重桜は,まさに,浪速の春を飾る風物詩となっていて,夜間のライトアップには訪れる人も多く,屋台が川沿いに並ぶのである.毎年開花時期を予測して,通り抜けの期間が決められるが,昨年は,見事に満開直前の傷みのない見事な時期が選ばれた.通り抜けは,造幣局構内旧淀川(大川)沿いの全長560mの通路が1週間開放される.現在は,構内には,関山,普賢象,松月,紅手毬,芝山,黄桜,楊貴妃など約120品種、約370本もの桜が花を付けている.大半は遅咲きの八重桜である.明治16年に「通り抜け」が開始されたとかで,昭和58年春には100年を迎え,紅手毬、大手毬、小手毬及び養老桜などの他では見られない珍種も多くある.
 桜の中でも,一重のソメイヨシノも,木一面に真っ白に花を付け,木あるいは木々の集まりとしての美しさが,また,枝垂れ桜(平安神宮のしだれは魅力)は,小さな花が,垂れ下がる枝一面につけ,白い花の滝を形作る美しさがある.それに対して,八重桜,特に造幣局に多い大型の八重桜では,一つの花が美しく,また,それが花のボールのようにかたまった美しさは,ソメイヨシノと違ったものである.小の集まりと大きなものの塊の違った観点からの大・小対比ともいえる.
 一方,秋が深まると「もみじ」の季節となる.もみじといえば高尾といわれるほどに神護寺の紅葉は美しい.神護寺への急な坂道を上り,最後の階段の上には元和9年建立とされる楼門に至る.階段付近は木々に覆われ薄暗い感じで,まだ色づく前の黄色いもみじの葉を空に透かして楼門と一緒に眺めるのも風情がある.その楼門を入ると広い参道とその回りに見事に色づいた紅葉が目に飛び込んでくる.
  カエデは,ラテン語Acer (アケル)で,“裂ける”の意味で,葉が切れ込んでいることに由来するらしい.英語のmapleは,ラテン語に近い独・仏・伊語とかなり違っている.日本ではカエデは,一般に「楓」の文字が当てられるが,植物学的には「槭」である.この楓は,同じような葉の形を持つ「フウ」の木の漢字が「楓」であるためである.でも,全てのフウがカエデではないのだ.
 その楓が,日本では何故「もみじ(紅葉)」なのか.まず,カエデは,万葉集の「かえるで」から来ているといい,カエデが,秋になって葉が紅くなることから紅葉する樹木をもみじというようになったという.カエデの中でも,イロハもみじ、ヤマもみじ、オオもみじなど,葉が5つ以上に切れ込んで掌状のものをもみじと呼ぶこともある.この定義でいくと,東福寺もみじは「もみじ」でないことになる.東福寺の黄色くなるもみじは,中国から持ち運ばれたものであり,その意味ではフウなのである.
 紅葉は,鮮やかな赤色に染まり,全体が真っ赤な感じとなるのも素晴らしいが,神護寺のもみじは,1本の木でありながら緑から黄緑,赤緑,それに真っ赤な色までの複合的な色合いのグラデーションを示しており,この色の対比がまた美しい.海外ではあまり見られない真っ赤なもみじもいいが,多様をよしとするか,均一をよしとするかは,単純に比較することは難しいものである.
 もみじといえば,NHK大河ドラマ天地人」で,直江兼続は,わずか五歳で景勝の小姓となったが,雲洞庵に入るときには「行きとうない」と必死で訴え,その泣き顔に,母親のお藤が主従の関係をもみじに例えて説得する場面がある.“燃え上がるようなあの色は,わが命より大切なものを守るための決意の色.そなたは,あのもみじになるのです.もみじのような家臣になりなされ.”と.もみじは,葉を落として,冬の寒さに耐える主木を助けるのである.
 桜といい,紅葉といい,四季があっての木々であり,その木々にとっての一瞬の時の「春」と「秋」を人々は愛でて楽しむのである.ただ,「愛でる」は,その人の想いの表れであり,常から愛でる気持ちでいたいものである.

智の木協会 理事長 豊田政男(平成21年4月21日)